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カレンダーこぼれ話 vol.5「藤田嗣治‐ 美しい画風の秘密」

こんにちは。
今回は、フィルムに印刷することで、より美しく精密な絵画を楽しむことができる「フィルムカレンダー」シリーズ。その中でも新商品の「藤田嗣治 作品集」についての“こぼれ話”をご紹介します。
この絵を見るポイントって何なのかな? そもそもこの画家のことを知らない……どんな人?
そんな方はぜひこちらの記事を参考になさってみてください。

 

日本を離れ、フランスで開花した自由で繊細な画風

日本に生まれ、東京で西洋画について学んだものの、作風が当時の画壇に受け入れられず、展覧会などでも落選を繰り返した藤田。

彼は26歳で憧れていた洋画の本場、フランスに渡り、世界中から若手の画家が多く集まっていたパリのモンパルナスで暮らし始めます。
隣には後に親友となるモディリアーニが住み、ピカソ、ジャン・コクトーなど後の巨匠たちと出会った藤田は、親交を温めつつ、彼らの絵、己を模索する姿に衝撃を受けました。

そのショックは当時の日本で洋画の頂点に君臨し、かつての師である黒田清輝からもらった絵具箱を叩きつけるほどだったそう。

日本の画壇とは異なる、自由奔放な芸術に触れた藤田は感激し、改めて自分だけが描けるものを努力を重ねながら模索していきます。

ところが、そんな時に第一次世界大戦が勃発。日本からの仕送りが途絶えた藤田は生活が困窮し、寒さのあまり、時には自身の描いた絵を燃やして暖をとらなければならないほどに苦しみました。
髪も自分で切っていたため、トレードマークのおかっぱ頭はこの頃に生まれたそうです。

それでもフランスに居続け、油絵を描く油がなくなれば違う画材を使ってでも、絵を描き続けた藤田の不屈の精神。
そのかいあってか、フランス人画家との二度目の結婚で美術界に繋がりができはじめ、終戦が近づく頃には藤田の絵はようやく売れ始めます。

1919年にフランスの大きな美術展覧会「サロン・ドートンヌ」に出品した6点の作品すべてが入選し、会員に推されるという快挙を成し遂げると、藤田の描く作品は大評判になりました。

「誰も描いたことがないような裸婦を描きたい」と願った藤田が独自の作風を追及して描いた「乳白色の肌」と繊細な筆づかいは藤田の代名詞に。

やわらかい、押せばへこむような皮膚の質感を表現して描かれた透き通るような肌の色。
日本画で使われる細い面相筆と墨を油絵に使用した線描を生かした画風。

独自に作り出したキャンバス地や、ベビーパウダーなどの材料を巧みに使い、自分だけの持ち味を出すことに成功した藤田。彼は裸婦と猫をトレードマークに爆発的な人気を得て、パリを代表する画家に成長していきました。

 

職人魂!服もキャンバスも額も全部手作り!

自身を「アルチザン(職人)」と称し、デパートなどで売っているものはすべて商品にすぎない、芸術家は芸術品を身にまとうべしと、藤田は着る服や額縁、机に至るまで様々なものを手作りしていたそうです。

1-2月のページで使われている「My Room in Paris,Still Life with Alarm Clock ―私の部屋、目覚まし時計のある静物―」という作品には、眼鏡、木靴、パイプのほかに、かごに入った毛糸玉が藤田の姿を象徴するように描かれています。
編み物をしている藤田を想像すると、なんだか彼が身近に感じられる気がしますね。

サロン・ドートンヌに出品され、藤田の出世作の一つとなったこの作品は、藤田の白い下地と細い筆の線で描かれた最初の静物画です。

絵の横幅は97㎝、高さはなんと1.3メートルもある大作。この絵は、藤田が初期の自分の力量を知る記念として好んでいた作品で、フランスから東京の家にも持っていき、第二次世界大戦後に追われるようにして日本を離れた際にも手元に置き、フランス国立近代美術館に寄贈されています。

 

ニューヨークで描かれた、出せない手紙を書く女性

このフィルムカレンダーの表紙と、3-4月のページに使われている「At the Café ―カフェ―」という絵は、パリでも日本でもないアメリカのニューヨークで描かれた作品です。

フランスで成功し、日本に戻ったものの、軍からの依頼で「作戦記録画」を手掛けたことで、戦後には「戦争協力者」として糾弾された藤田。
居場所がなくなった彼はフランス行きのビザの申請もなかなか認められず、困惑していたところを、GHQの芸術担当者が彼へ敬意を抱いていた協力でアメリカ行きのビザを手に入れます。

フランスへのビザを待ちながらの約一年のアメリカ滞在。

「カフェ」の椅子に座る婦人は、藤田の絵には珍しく、愁いを帯びたようなどこか心細げな表情をしています。
そして手元には黒く塗りつぶされた手紙。出されることはない手紙を前に頬づえをついて、彼女は何を考えているのでしょうか。
彼女の後ろに見えている街は、藤田が日本に戻る前。自身の過去の作品から転用した、在りし日のパリの風景が描かれています。

「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」そう自伝で語った藤田。

日本に居場所がなくなり、初めて訪れたアメリカで、長年離れていたパリを思いながら描かれた「カフェ」。
懐かしさと、以前のパリとは変わってしまったのではないかという不安。アメリカでも個展を開き、刺激を受け活動しながらも、自身を受け入れてくれる場所のない行き場のない思いが画面から伝わってくる気がします。

絵を完成させた5ヶ月後、藤田はパリに向けて旅立ちます。
そしてこの後、藤田は二度と日本に戻りませんでした。

 

フランスでの再出発と洗礼、藤田の情熱

フランスに戻った当初は古臭い過去の遺物よばわりされていた藤田。ですが彼は再び精力的に活動をはじめます。
カトリックの洗礼を受けて、レオナルド・ダ・ビンチにあやかった「レオナール」という洗礼名を得てからは、キリスト教をテーマにした宗教画の制作に積極的に取り組みました。

最期の大作として、藤田はフランス北東部の都市ランスの「ノートル=ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母)礼拝堂」の設計、壁画やステンドグラス、レリーフを手がけます。

全て自分で作り上げるために新たにフレスコ画の技法を学び、昼も夜も作業を続け、約3ヶ月かけて一人だけの力で完成させました。

激動の時代を生きた藤田は81歳でその生涯を終え、「フジタ礼拝堂」ともよばれるこの建物の下で眠っています。
フランスの国営放送では彼の死後、「フジタは“パリジャン”としてパリを愛し、活気づけてくれた」と深い哀悼のニュースを流したそうです。

現代の部屋に掛けても古さを感じさせない藤田の美しい絵は、カレンダーを使い終えた後にはフィルム部分を切り離して自由に飾って楽しんでいただけます。

藤田の描いた繊細で生き生きとした作品たちに触れ、パリの黄金時代に活躍した前衛画家に思いを馳せてパワーをもらいながら、自分らしい一年を過ごしてみてはいかがでしょうか。

■My Room in Paris,Still Life with Alarm Clock ―私の部屋、目覚まし時計のある静物―
1921年 油彩、カンヴァス ポンピドゥー・センター蔵(フランス・パリ)
■At the Café ―カフェ―
1949年 ポンピドゥー・センター蔵(フランス・パリ)
■White Cat ―白い猫―
20世紀 水彩、紙 個人蔵
■Quai aux Fleurs,Notre-Dame ―フルール河岸 ノートル=ダム大聖堂―
1950年 油彩、カンヴァス ポンピドゥー・センター蔵(フランス・パリ)
■Bistrot ―ビストロ―
1958年 油彩、カンヴァス カルナヴァレ美術館蔵(フランス・パリ)
■Nude with Tapestry ―タピスリーの裸婦―
1923年 油彩、カンヴァス 京都国立近代美術館蔵

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