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カレンダーこぼれ話 vol.2「グスタフ・クリムト‐ 己を貫いた絵の魅力 後編」

クリムト

さて、前編では、従来の伝統的描法ではなく、写実的に裸婦を描いたためにとんでもなく嫌われて糾弾されてしまったクリムト。
彼はその後どうなったのでしょうか?

 

自分の芸術は自分のもの

クリムトは世間の声に叩かれながらもお構いなしに、不屈の精神力で作品を生み出し続けます。そして殺到する記者団に対する声明文でこう答えました。

「私には個人的にこのけんかにかかわっている時間はない――絵を一点描き上げたからといって、やじ馬連に説明するような無駄な時間の余裕はない。私にしてみれば、どれほど多くの人がその絵をいいというかは問題じゃない。要は、誰が「いいと思う」かと云うことだ」(「クリムト展 」東京新聞,1981年,P.9より引用)

さすが芸術家といったところでしょうか。しかしさらに論争は過熱し、ついに依頼をしたオーストリア政府側も論争に参加しはじめたため、クリムトは分離派にこれ以上とどまれないと脱退してしまいます。クリムト

それでも自分を貫いたクリムトは、1905年に契約破棄として問題になった3点の制作依頼金を政府に返し、作品を自分のものとして取り戻しました。
そしてこれ以降、国からの仕事は請けなくなったそうです。
後にナチスに没収されてしまい、この作品たちは残念ながら焼失してしまったため、今残るのは白黒写真と「医学」の習作のみ。
皮肉なことにクリムトをさらに有名にしたこのクリムト論争と3点の作品ですが、いったいどんな絵だったのか間近で観てみたかったですね。

 

そして新天地「オーストリア芸術家同盟」へ

クリムトは分離派を脱退した後、数名の友人と共に新たに1906年「オーストリア芸術家同盟」を結成します。
「どんなに豊かな人生でも、芸術によってより豊かになるし、芸術が入る余地がないほど貧しい人生などありえない」
結成において教育省に宛てた公開書簡に書かれたこの言葉が、彼らの決意のほどを物語っています。

そして彼らは国内外でこれまでにない大規模な展覧会を展開し、さらに活躍の場を広げていきました。

その後クリムトは、独特の様式に金銀のモザイク画像などを用いた作風や、正方形のカンバスに描かれた風景画などで円熟期を迎えますが、55歳にして脳梗塞と肺炎によってこの世を去ります。

クリムト

語らない芸術家「グスタフ・クリムト」の残したものとは

話したり手紙などを書いたりすることが大の苦手で取材嫌いで知られたクリムトは、自分の芸術を弁護する立場になると引き下がり、口をつぐんでいました。そのため、言葉や書いたものはほとんど残っていないそうです。

「――私について知りたいと願う人は――私の作品を見て探し出すべきである。私が何者なのか、私が何を求めているのかを」

小論にわずかに書き残された潔い言葉からは、画家としての彼の在り方が感じられます。

日本の美術や文化に愛着をもっていたことでも知られるクリムト。
豊かな色彩の人物画、風景画に宿る彼の精神を、私たちに身近な目線から探してみると新しい発見があるかもしれません。

自由に己を追求し、表現した絵画から、あなたはどんな美を見出しますか?

クリムト

参考文献:「クリムト展 」東美デザイン,東京新聞,1981年.

 

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クリムト

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